★2012年8月、およそ6年ぶりに中国上海に帰ってきました!このブログは「AZU」が綴る、上海(サンヘー)滞在記録。ワクワクの上海生活、まるごとお届けします。ほらね、生きてるってこんなに可笑しい★


by azu-sh
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

カテゴリ:「あづ」の中国語ティータイム( 11 )

東京で血迷う(笑)

 日本語教師養成講座が終了しました~!去年の9月に受講を始めて、この3月に集大成の教壇教育実習を終え、最後のレポートを提出して、あとは修了証書の到着を待つのみ~♪となりました。思えばこの「日本語教師」の資格、図らずも海外に移り住む直前に取得できたことは奇跡のようです。これからの目標は、この資格を生かして、何かしらの形で海外における日本語教育の現場で働くこと。もちろん、なりたてホヤホヤの新米先生ですから、正規の働き口を探すのも職場で信頼を築くのも容易でないことはわかっています。でも、この半年間、毎週泊まり込みで東京の学校に通い、眠い目をこすりながら教案を練り直し、ダメ出しされても食らいつき、単位もひとつも落とさず420時間走り続けたこの苦労を、いつかきっと実らせたい!そして、自分の母語である日本語をもっともっと磨いて、担当したクラスで質の高い授業を作り上げていきたい!世界中の日本語学習者の夢を叶える架け橋になりたい!…と、野望は尽きません(笑)
b0074017_22365438.jpg

 毎週、東京に通ったのも新鮮だったなぁ。毎回おいしいものが食べられて、食事の時間だけは幸せでした。最初はなかなか慣れなかったシングルホテルライフも、なんだかすっかり“日常”になってしまったなぁ。仕事をしながらの受講は体力的にも精神的にもとてもしんどかったけれど、終わってみると、宿題のない生活が少し物足りなく感じるくらいだからゲンキンなものですね。

 先週末、通い慣れた道で再び東京へ行き、HSK(中国語の検定試験)を受けてきました。前回は全く勉強しないで4級が受かったのですが、今回はもうひとつ上の級の5級に挑戦。自信がなかったので、ばっちり試験対策していくつもりで問題集もCDも買いました。あぁ、それなのに…。今回も問題集をパラパラッとめくっただけで、ヒアリングテストのCDも聞かずに受験日を迎えてしまいました。あまりにも、忙し過ぎたから…(言い訳)。かろうじてやった試験対策は、前日の夜にやった、「与えられた単語をすべて使って80文字前後の作文を書く」という作文問題。ブログを書くのが趣味のせいか、こういうのだけは得意なんだよね…。

 そして、試験当日。試験対策を全くやらなかったヒアリング問題は案の定ボロボロの出来。今、何問目をやってるのかわからなくなっちゃうくらい、パニクりました(汗)。もしかしたらダメかもしれない。読解問題は案外簡単で、スイスイと解けてしまった感じ。最後の作文問題は…4級の時と同じく、結局遊んじゃいました。というより、必死に考えて作文したのになんでこういう文章しか書けないんだろう。果敢にも笑いを取りに行ったわたしの解答とは…。(まだ採点されていないので、あえて日本語で書きます)

(1問目・お題は「記者」)

「ある中国人の記者が日本の人気子役を取材した。“今回の映画では演技がとても上手でしたね、どうやって稽古したんですか?”と日本語で質問したところ、当の子役スターは恥ずかしそうにするだけで、何も言おうとしなかった。記者は内心慌てた、自分の日本語がおかしかったから通じなかったと思ったのだ。しかし、彼は勇気を出してもう一度質問してみた。すると、子役スターは笑顔で質問に答えたではないか。」

(2問目・お題は「乾杯」)

「今日は“快楽男生”の決勝戦。“快楽男生”とはあるテレビ局がやっている“男性のミスコン”です。うちのクラスの代表は汪くん、背が高くってイケメンで女子にめっちゃ人気があるんです。汪くんは期待どおり、決勝で優勝しました。夜、わたしたちは汪くんの勝利を祝して乾杯しました。」

 …だからなんでさっ?必死に考えた末、これなの?ひねり過ぎだろっ。ちなみに“快楽男生”と同じ発音の「快楽男声」という番組は実在していて、湖南衛視というテレビ局がやっている男性の歌手発掘オーディション番組。それをもじったわけです。1問目のほうは、中国人記者が芦田愛菜ちゃんにインタビューしている図が突然思い浮かび、その映像が脳から消えないうちに一気に書いてしまいました。

 これを採点する中国の人は(最近の中国語学習者はすれてるなぁ)と思うだろうか…。もちろん、こんな作文で合格しちゃったらなんだか申し訳ないけど、わたしはこれでも脳をフル回転させたんですっ。評価してくださいっ!(泣)

 でも、作文が書けてもヒアリングで最低点落としたら不合格になるんだから、そっちのほうが怪しい。結論!!→→HSK高級に挑戦する時は、最低限「出題形式」を理解して臨みましょう。5級が一発で受かるとは思っていませんが、作文だけは意外におもしろかったあづでした。(笑)
 とにかく終わった、おつかれさん!




◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
もうひとつの「サンへーブログ」もよろしく!

★日中二ヶ国語ブログにも遊びに来てね! → AZUのサンへーブログⅡ
 一回でアクセスできなかったら再度試してみてくださいね。
★最初に中国語で、そのあと日本語でほぼ同じ文章が書いてあります。投稿した全文を見るには「查看全文>>」というところをクリックしてみてください。
★コメントは日本語でも中国語でも書けます。でも説明が全部中国語ですので、「コメントしたいけどできないよ~」という方は、こちらのエキサイトブログにコメントしてね!待ってま~す♪
[PR]
by azu-sh | 2012-03-23 23:18 | 「あづ」の中国語ティータイム
 ハルピンに文通相手ができた。名前はホイちゃん。実際に生まれた年ではわたしより一歳下、でも届け出た生年月日だとわたしのひとつ上。中国ではこういうこと珍しくないのよ、とホイちゃんのママは言った。実際より一年、二年、歳をごまかすのは、少しでも早く学校に入れて同い年の子より早く進級させたいから。わたしにはその意義がいまいちわからなかったが、自分の子に過度な期待と過酷な課題を与えてまで将来の保障を得たいのだろうか?

 辞書の文例をそのままパクッたかのようなわたしの硬い文章に、ホイちゃんはいつも若者らしく元気な筆致で返事をくれた。今は日本⇔中国間でもメールは当たり前、日本の携帯電話から中国の携帯にメッセージだって送れる。でもその頃はまだパソコンを持ってる人は少なかったし、わたしたちの文通は切手を貼った封筒のやり取りで続いていった。当時の中国では切手収集が大流行していて、珍しく美しい切手を貼ると郵便物を盗まれる、といううわさがあった。だからわたしは「きれいな切手を貼りたいけど…盗まれたらどうしよう?」と毎回頭を悩ませたものだった。(笑)

 それはともかく、日本語のわからない相手宛てに何時間もかけて中国語で便箋を二枚埋める作業はかなり作文の勉強になった。ホイちゃんは「手紙から察するに、あづは相当中国語が上達したらしい」と思ったらしく、うちに泊めるから冬のハルピンを見学に来ないかと誘ってくれた。
 →これがその時のホームステイの記録
 ホイちゃんと別れる時、ホイちゃんは「あづ、口語!口語!」と叫んだ。立派な手紙を書いてくる割にはあまり話せなかったわたしは、再会の喜びと今後の巨大な課題を背負ってハルピンを後にした。

 それからのわたしは中国人率の高い中華料理屋さんでアルバイトしたり、中国語で講演の行われる集会に参加したり、近所の中国人と互いに教えあったり、細~く地道に勉強を続けていた。

 高校を卒業して二年後、わたしは中国語ボランティアとして大阪に行き、職場でもプライベートでも中国語を使う毎日を送った。

 そしてその二年後、先輩の(かなり強引な)勧めで、初めて中国語を人に教えることになった。自作のチラシで生徒を募集したらあっというまに希望者が20人を超え、二年間で延べ40人の方に教えることになった。各クラス1~5人の少人数制だが、クラスごとに使う教科書もみんなのレベルも学習目的も見事バラバラ…、仕方なくわたしはどのクラスでも応用が利くプリント教材を自分の手書きで作ることにした。18歳の大学生から50代のサックス奏者まで、いろいろな人に中国語の楽しさを教えるのは思っていたより手ごたえがあり、達成感や満足感でいっぱいだった。何より、わかっていないことは教えられないから、猛勉強すると、その分自分が上達していくのがわかる。生徒さんもとても楽しんでくれたみたいで出席率は90%以上だった。

 初級→中級へ伸び悩んでいる人へのあづのアドバイスは、
    「ぜひ中国に行ってみてください」
       「中国の何かを好きになってきてください」

 中級→上級へ伸び悩んでいる人へのあづのアドバイスは、
    「ぜひ誰かに教えてみてください」
       「無報酬でもいいから生徒を持ってください」


 いかがですか?人それぞれ小窍门(コツ)があると思うのでこれはあくまでわたしの場合、ですけどね(笑)
b0074017_1465756.jpg

[PR]
by azu-sh | 2010-10-03 01:48 | 「あづ」の中国語ティータイム
 高校の先生の勧めで行くようになった中国語講座だが、わたしにとって毎回の授業はかなり重荷だった。中国人の先生の話す中国語が全く聞き取れないのだ。その頃、わたしは黄老師(黄先生)という北京ナントカ大学から来た中年の女の先生のクラスだった。彼女は外国人に中国語を教えるプロで、授業は確かにテンポ良く、楽しい雰囲気だった。来日したばかりの黄先生は日本語が全く話せなかったので、授業中もその前後も、使える言語は中国語のみ。わたしは完全にクラスの落ちこぼれだった。毎回席が決まっていて、質問に答える人を席順にあてていくのだが、先生はわざと順番を変えてわたしに簡単な質問が来るようにしてくれた。しかし、それでも答えられなくて、沈黙が続いてしまう。先生はさすがにあきらめて、わたしを飛ばしてみんなをあてるようになった。

 (もうやめようかな、たぶん向いてないんだ)…中国語講座に通って一年半が過ぎていた。わたしは自分はもうこれ以上伸びないだろうと思い、中国語講座に行くのをやめようと考え始めた。その時、三歳の時に別れて以来数度しか会ったことのない父から電話があった。「進路はどうするんだ?進学するなら援助するぞ」。わたしは中学生の頃からボランティアをしていて、高校を卒業したらそれをもっと本格的にやろうと考えていたので、「ん~進学はしない。」と答えた。その時、中国語講座でもらった夏期短期留学の案内が目にとまった。
 「ねえ、お父さん。そのかわり、留学したいんだ。費用助けてもらえる?」中国語は完全にやめてしまうつもりだったのに、(やめちゃう前に、中国がどんな所なのか見てこよう)と思い立ったゲンキンなわたしは、中国ハルピン市黒龍江大学に留学することになった。動機は単純、海外に行ってみたかったから。これがわたしの中国語人生の転機になるとは知らず、何の期待も目標もないまま、初めての飛行機に乗り込んだ。

 中国に着いた最初の日に口にした唯一の中国語は「不要」(いらない)だった。そればかり言っていた。きれいなものを見てもおいしいものを食べても、「不要」しか出てこない…(笑)。ところが、一日また一日と過ぎていくごとに、少しずつだけど、今まで口にしたこともない長い文章が中国語で言えるようになってきたのだ。大学の留学生面接の時、わたしは中国人の先生たちの前でこう言った。“在日本的时候我是高中生,可是在中国的时候我是大学生,所以我很高兴。”(日本にいる時は高校生だけど、中国にいる間はわたしは大学生。だからうれしいです)どうやら、この一言でわたしの属するクラスが決まったらしい。一番レベルの高い高級班だった。

 ハルピンでの授業は、いつもの授業と違った。日本語なんて一言も使っていないのに、先生の話していることが100%わかるのだ!わたしは積極的に発言し、質問した。授業が終わると街へ繰り出し、バーゲン中のデパートでTシャツを買ったり、自由市場と呼ばれる路上の八百屋さんや馬車に乗った果物屋さんから目新しいものを次々買った。どこへ行っても中国語で話した。今までのわたしと脳が別人になった気分だった。放課後中国語を教えてくれる家庭教師の大学生とも仲良くなった。一時間レッスンの予定が二時間、三時間も時間を忘れて中国語でおしゃべりをした。知らなかった、中国って楽しい!中国語ってこんなにおもしろい!!

 ハルピンから戻ってきた最初の日本での授業で、黄先生が「初めての中国はどうでしたか?」と尋ねてくれた。わたしはなんとそれから10分ほど、しゃべりっぱなし。どんなに楽しかったかを中国語でまくしたてた。驚いたのは黄先生とクラスメートたち。みんな目を丸くして「あづさん、いつからそんなに中国語できるようになったんですか?」と口々に言う。それもそうだ、留学に行く前のわたしはクラスで唯一「口を開こうとしない子」だったから。ハルピン留学から帰ってきたわたしは、中国語をライフワークにすることに決めた。初めて中国の洗礼を受けたわたしは、身も心も中国大陸に奪われてしまったかのようだった。
  続く…

 当時は道路に馬車専用通路まであった、馬やロバの荷車。
 よく見かけたけど、今はどうなっているんだろう。
b0074017_3205877.jpg

 歩道を占領して猿の芸を見せていた。
 わたしは猿ではなく見物人を見物していたが。
b0074017_3212980.jpg

 「戦後流行った近所の駄菓子屋さんだよ」と
 母に言われても信じそうなセピア色。
b0074017_322337.jpg

 大学の校舎の横で「香瓜」を買う。
 マクワウリという小型のメロン。甘くておいしい。
b0074017_3225474.jpg

[PR]
by azu-sh | 2010-09-22 03:04 | 「あづ」の中国語ティータイム
 高校での中国語の授業は二年間だった。わたしは毎回ワクワクした気持ちで授業に臨んでいたのだが、クラスメートたちは違った。授業中は熟睡している人ばかりで、先生の講義も遅々として進まなかった。わたしは業を煮やし、職員室に行った。「先生、わたし中国語上手くなりたいんです。授業で文法をもっとたくさん教えてください」。先生は「でもね」、と残念そうに言った。「他の生徒の授業態度とレベルを見てたらわかるだろう、文法なんて教えても、とてもついてこられない。じゃあ、こうしよう。きみは毎週ノートに中国語で日記を書いて提出しなさい。次の週までに先生が添削して返すから。ずっと続ければ力になる」。

 高校三年生になり、学校での中国語の授業が終わると、先生は電話をかけてきてわたしに言った。「高校の授業は終わってしまったが、きみにだけは中国語を続けてほしい。やめてしまうのはもったいない。市内にある中国語の学校を紹介するから、高校と両立して通いなさい」。
(その頃の話を四年前に記事にしたので興味があればクリックしてね ↓ )
感谢您,我的中文老师!

 先生が紹介してくれた中国語講座は、入門・初級から上級・高級クラス、通訳養成コースや留学準備コースなんかもあって、規模は小さいけれど本格的な語学学校だった。もちろん、ネイティブの先生に教えてもらえる。わたしの高校の先生はなんとその学校の代表者だった。わたしは中級クラスにするか上級クラスにするか迷った挙句、上級クラスからスタートした。高校と違って、やる気にあふれた学習熱心な社会人ばかりのクラスで、先生は中国人。初めから面食らった。でも、高校に行きながらなんとか通い続け、高校卒業後も次々上のクラスに進んで中国語を学んだ。

 高校在学中に、先生が「中国語弁論大会」に出てみないか、と声をかけてくれた。わたしは決められた課題文を読むだけの朗読の部に出たかったのだが、先生の一存で自分で作文したスピーチを暗記して表現する弁論の部に出ることになってしまった。その頃のわたしはまだ自分で中国語の文章が作れなかった。結局、ほとんど中国人の先生が訳してくれたものを必死で覚えたわたしは、自分の高校生活の集大成と思って県大会に出場し、なんと優勝してしまった…。
 次は東京で全国大会がある。わたしは自信のないまま、先生の猛特訓を受け、一緒に中国語を習っていた高校の後輩と二人で東京に行って中国語弁論全国大会に出た。今でこそ珍しくなくなった高校での中国語教育だが、当時はまだ高校生で中国語をやっている人は全国的に少なかった。20数人がエントリーした全国大会出場者のうち、高校生はわたしを含めて三人。中国からの来賓や大学教授などがずらりと並んだ審査員席を見て、わたしはおじけづき、プレッシャーに負けそうになった。
 しかし結果はまあまあで、わたしは高校生でただ一人入賞を果たした。上位には食い込めなかったが。

 その先生は、中国語に限らず、アジア諸言語の教育や外国人に対する日本語教育に力を入れていた。わたしは夏休みに短期留学に行ったハルピンで、初めてロシア語を目にし、ロシア語にとても興味を持っていた。それで、わたしの通っていた語学学校にロシア語クラスがオープンすると聞いて飛びついてしまったのだ。ロシア語はロシア人の先生について二年間習ったが、全くモノにならなかった。今思うと、ロシア語じゃなくて広東語をやるべきだった…(--;)そうしたら中国在住中に使えたのに。

 先生は語学学校でたくさんの中国人職員を雇っていたのだが、わたしが上海にいた頃、学校の職員室でそのうちの一人に殺されてしまった。雇用条件などが理由ではなく、全く個人的ないさかいが原因だったようだが、ほかでもない、あんなに愛情を持って交流活動を続けてきた中国の人に殺されてしまったなんて無念だったろうと思う。国際交流というのは、国対国、ではなく人間対人間のレベルで真意が問われるものなのかと思った。
 でもあの先生の作り上げたものが、まだこの地で息づいているのを見るとうれしくなるのは、わたしだけではないと思う。ありがとう、先生。

 続く…

↓ 浙江省か江西省か…?車窓から見た景色。
b0074017_14163465.jpg

[PR]
by azu-sh | 2010-09-11 14:25 | 「あづ」の中国語ティータイム
 わたしが中学三年生の時、市内に新しい高校がオープンした。何でも、大学のような単位制で、朝から夜まで好きな時間に登校できて、普通科なのに選択授業で工業科目も商業科目も外国語も専門的に学べるという。進路に悩んでいたわたしは、「中国語が学べる」という話に飛びついた。でも、何しろできたばかりの高校で、先生たちの手元にも何の資料もないし偏差値の基準も進学率のデータもない。わかっているのは市内の公立高校で倍率が一番高いこと、入試が独特で五分間の持ち時間の間に何か得意なモノを披露して自分をアピールするということ…。難しそうに思えたが、中国語を勉強したい一心で受験を決意した。しかも最初から行くつもりのない私立高校の併願はしなかった。今考えると、よくあんな度胸があったなぁという感じがする。

 その頃、中学の国語の授業で魯迅の「故郷」を勉強した。わたしが出会った初めての中国文学だった。わたしはひとつひとつの言葉を噛みしめるように読んだ。わたしの理解力では及ばないところもあったが、とても強い影響を受け、授業の終わりに書いた感想文に「高校生になったら絶対中国語を学んで、もっと理解できるようになりたい」と書いた。

 そして高校入試。わたしは当時習っていた手話で五分間のスピーチをし、何とか合格を手にした。後で聞いたところによると、同級生たちはフルートやピアノの演奏、バスケのシュート、百メートル走、手作りのお菓子、自分で縫ったスーツ、英語やスペイン語のスピーチ、自作のドキュメンタリービデオ…など実にいろいろな“自由表現”で狭き門を通り抜けたことを知った。道理で、個性的なメンバーが集まっていたわけだ。高校の入学式でわたしは入学者代表の言葉を言った。もちろん、「この高校で中国語をやりたい」ということを含めた。

 高校一年生の春から、わたしはついに念願の中国語を習うようになった。新しい言語を学ぶのはおもしろかったが、一筋縄ではいかなかった。20人くらいいたクラスの人数はどんどん減り、夏休みが終わっても授業に来るのは7人ほどしかいなかった。最初から単位を取るつもりもなく、他に適当な科目がなかったから仕方なく中国語を選択した生徒ばかりだった。全体的に全くやる気のない雰囲気の教室で、先生の声だけがこだましていた。でも、高校時代にわたしに中国語を教えてくれた先生に、わたしは今も深い恩を感じている。日中友好活動と中国語教育に人生を捧げたその先生は、後に中国人に刺殺されてしまうのだが…。

 続く…
b0074017_1521617.jpg

[PR]
by azu-sh | 2010-09-03 15:21 | 「あづ」の中国語ティータイム
 わたしが初めて「中国語」を聞いたのは、たぶん小学校五年生の時。
 近所の友達のMちゃんに年の離れたお兄さんがいた。お兄さんは何年も前から台湾の屏東県に住んでいて、向こうで出会った台湾人の奥さんと結婚したのだが、あの夏、奥さんを連れて実家に帰省していた。
 「外国のおもしろい話が聞けるよ」
 Mちゃんからそう聞いて、わたしは彼女の家を訪れた。Mちゃんのお兄さんは言語の堪能な人で、機知に富んだ珍しい話で集まった人を魅了していた。そんなお兄さんが奥さんと交わす外国の言葉は、初めて聞いたのに何かとてもリズミカルで耳に残る、おもしろい音だった。わたしはそれ以後、Mちゃんのお兄さんが日本に帰ってくるたびにMちゃんの家に行っては、お兄さんの話してくれる台湾の話を聞くのを楽しみにしていた。

 Mちゃんのお兄さんが台湾のお土産で中国語の雑誌をくれた。ページを開くと全部漢字だった。わたしは(小さかったくせになんと!)「英語は無理だけど、これなら読める!」と思ってしまった。難しい漢字だけど、きっと全部音読みしちゃえばいいのだ!(→短絡的)わたしが生まれて初めて中国語の朗読(?)に挑戦したのも小学生の時だった。(笑)

 そしてわたしは中学生になり、夏が来て、またMちゃんのお兄さんが台湾から帰ってきた。今回は台湾人の友人も数人連れての帰省だった。Mちゃんのお兄さんはいたずら好きな人だった。ある日、“台湾の友人”を連れて、わたしの家に遊びに来た。二人はわたしが聞いても訳のわからない言葉を話しては笑い合っていた。そのうち、お兄さんは話していることを通訳してくれた。「今、彼は今何時か尋ねてたんですよ」。(おかしいな、目の前に時計あるのに)…二人は大声で笑う。「彼は最近台湾でマラリアにかかって、頭がおかしくなったと言っています」。また、二人で爆笑している。なんか変だ。
 「ホントに台湾の人?」
 誰かがそうつぶやいた。そう、Mちゃんのお兄さんが連れてきたのは、中国語の話せない普通の日本人だったのだ。今まで彼がしゃべっていたのは、全部でたらめの中国語だったのだ。わたしはみんなと一緒にゲラゲラ笑いながらも、だまされたことが内心悔しかった。中国語がわかれば、だまされなかったのに!

 わたしが英語よりも先に耳にした外国語は中国語だった。話せるようになりたい、と初めて真剣に思った外国語は中国語だった。そのきっかけは全部、Mちゃんのお兄さんが作ってくれた。十数年後、わたしとそのお兄さんがそれぞれ上海に移り住み、わたしが彼の翻訳会社で働くことになるなど、この時はまだ思いもしなかったが…。

 続く…
b0074017_1525754.jpg

[PR]
by azu-sh | 2010-08-31 15:36 | 「あづ」の中国語ティータイム
 ちょうど10年前の2000年4月、わたしは大阪に移り住んで中国語で帰国者や留学生などを支援するボランティアを始めました。同じ志を持つ、四つ年上の女の子とルームシェアをしながらの暮らし。中国人の友達もたくさんできてとても充実した毎日でした。わたしが住んでいた市は中国東北地方からの帰国者が多く、地元の小学校の運動会のアナウンスは日本語と中国語の二ヶ国語、団地のゴミ捨て場にも中国語での案内板が立ち、回覧板も掲示板も二ヶ国語というのを知ってとても驚いたのを覚えています。町内会の役員には必ず中国人を含める、と決めている町内もありました。日本国内にはこういう、中国からの移住者がまとまって住んでいる町があちこちにあるようですね。それまで何も知らなかったわたしはまるで異国に来たかのような錯覚を覚えました。
 わたしのバイト先、ミスタードーナツにも毎朝清掃に来る中国人のおばさんがいました。彼女はお店のポップやのぼりにいつも興味津々。書いてある意味がわからないとわたしに聞きにきます。『ポイントを貯めてごろりんこクッションプレゼント』というポップを見ると、「あづ、“ごろりんこ”是什么意思呀?(“ごろりんこ”ってどういう意味?)」…『シナモンロール堂々上陸!』というのぼりを見ると、「あづ、“シナモンロール”为什么上陆啊?(“シナモンロール”がどうして上陸するの?)」…こういう質問、答えるのに苦労しました。(苦笑)
 わたしが生活に困った時、ふさぎこんでいた時、調子が悪い時、親身になって心配し積極的に助けてくれたのは中国人の彼らでした。全くどちらがボランティアしているのかわからないほど。悠久の大陸から来た寛大な精神を持つ人間くさい彼らが大好きになりました。「中国にいた時は“日本人”と呼ばれ、日本に来ると“中国人”と呼ばれる…わたしの祖国はどこなのか?」…若くて無知なわたしは、謎めいた過去と深い傷を持つ彼らのことを十分に理解してあげられなかった。でもおいしい水餃子を作る魔法の手と人情味溢れた大きな心を持つ、たくましい彼らと一緒に過ごせた時間は宝物です。
 先日、実家に帰った時、当時のルームメイトがハンドメイドで作ってくれたカラフルなくまさんを見つけて、しばし当時の思い出に浸りました。
b0074017_11563632.jpg

 これからも生涯を通じて、中国語に関わっていけたら、と思っています。
[PR]
by azu-sh | 2010-04-10 12:00 | 「あづ」の中国語ティータイム
 懐かしいものが出てきました。わたしが高校生だった頃の作文です。中国人の先生に指導してもらいながら書いた、卒業前のスピーチ。高校一年生から中国語を学び始めたのですがなかなか文章が作れなくて苦労したものです。懐かしいですねー。高校生活の最大の思い出、講演会で手話通訳をした時のことと夏休みに中国に語学留学に行ったことを綴っています。あれから何年たったでしょうね~(笑)

  我是高中生。现在我是高中4年级的学生。大概你们觉得奇怪“为什么高中四年级?”因为我的学校是学分制高中,学制很独特。学生们可以根据自己的兴趣自主地选择学科。大多数的同学读完三年,就毕业了。但是因为我除了对学科的感兴趣外,还对其他的事情感兴趣。所以我选择了四年的高中生活。我在高中生活中遇到了很多有意义的事。

  其中,最有意义事就是哑语(手语)。我高中的入学考试非常特别,要求每个人要表现自己的个性。于是,我用初中时学过的哑语讲话。哑语是聋哑人的语言。用哑语说话我是头一次,我觉得非常愉快。因此我想更好地深造哑语技术。在高中一年级的时候,在有关方面安排下我当了演讲会的翻译。哑语翻译很难,我常常感到灰心丧气。但是有的聋哑人对我说:“你长进了,你的翻译比以前好。”有人说:“我喜欢你的哑语,加油!”我听了,觉得很受鼓励。以前我听过这样的话:“学习哑语的人应该站在聋哑人一方。”通过两年的哑语翻译和学习,我领悟到学习哑语的人应充分体会别人的想法,不应该以自我为中心。哑语的学习,使我自己的高中生活充满了温馨柔和的气息。

  在高中生活中另一件有意义的事情就是汉语。我的学校是静冈县最早教汉语的高中。因为我很喜欢学习外语,就选择了汉语课。可是汉语课很难。最初我犯了很多错误。比如,用英文的方式朗读拼音,无法区别中国的简体字和日本的汉字。能不能坚持下来?我常常感到不安。但是,我被中国强大的魅力吸引住了。我开始感到只在学校里学习是不够的,要去外边的学习单位学习汉语。我学汉语学了三年了,今年暑假我终于去了中国。在中国也遇到了很多有意义的事。中国的大学生笑着对我说:“日本对中国的战争虽然是一段不好的历史,可是我们还是好朋友!”我觉得很高兴。当我买糖果时自由市场的妇女对我说:“欢迎日本朋友─”我又觉得非常高兴。中国人非常热情大方、中国地大物博。耳闻目睹,我对中国更加喜欢了。汉语让我的思想国际化,又使我对将来充满了梦想。

  “我是高中生。”只剩下几个月还可以这样说了。我马上就要毕业了。我的高中生活比其他的同学多一年,可是我比他们收获更大。现在日本大多数的高中好象是为了考中大学的补习班。而我们的高中目标是“锻炼个性,向时代挑战。”这也是我的人生目标。我的高中生活是在遇到很多有意义的事的基础上渡过的。我感到其乐无穷。我永远怀念这四年有意义的高中生活。
[PR]
by azu-sh | 2007-03-27 15:29 | 「あづ」の中国語ティータイム

诗~时代篇~

当今时代金钱时代
诚实被虚伪所取代
人生途径成功失败
成功者被拥护爱戴
失败者被蔑视迫害
自谋私利亲友出卖
道德伦理日渐变坏
为了钞票不分内外
观其发展自叹无奈
顺其自然追随时代
不要认为稀奇古怪
社会弊病相当存在
抓住机遇无能等待
遇到挫折自尊自爱
有钱人们消遣自在
穷苦百姓视目认待
请问现在什么年代?
法律认可严惩不贷
丑恶现象虽然古怪
哪能尽住阳光曝晒。

沈汝容(沈三宝)  (我经常叫他大猩猩大熊猫^^)

< 当我读到他写的这文章,不禁流泪。
他说倒数第七行所说的挫折是指精神病。
“大猩猩”并不是有学历的人更不是有钱人,
但我听到他的话才知道,
在社会上常被看作“不正常”的抑郁病人
才是反应“正常”的人。
“不正常”的倒是这个社会。 AZU >

[PR]
by azu-sh | 2006-11-24 07:42 | 「あづ」の中国語ティータイム
  我们常使用“抑郁”一词来描述生活经历中的悲伤,痛苦。当一个人面临诸如亲人死亡,人际关系破裂,巨大的挫折或失望时,大多数情况下会感到不愉快,悲伤。不过这些情绪反应是个正常的反应,一般持续时间较短。这算不上精神科意义上的“抑郁症”,只能算是日常生活感受的一部分。“抑郁症”的抑郁程度比同样情况的其他人要重,持续时间要长,常伴有焦虑,失眠,食欲下降等身体上的不适感。这种病一般均需治疗,因为即使能消除刺激,也不一定会立刻自行好转。

  人们常常把“抑郁症”看作是性格的弱点,意志薄弱的表现。有些人还以为只有性格内向,家庭不幸福的人才会发生抑郁。其实那些生活适应良好的人,工作顺利,家庭融洽,人际关系良好的人也会得“抑郁症”。因为“抑郁症”的病因不是人的缺点,而是与大脑神经化学物质不平衡有关。发病时表现为经历减退或失去愉快感,失眠,食欲不振,注意力不集中,体重下降,以及与心境相符的自罪感。有时因为灰心失望,自我贬低而导致自杀,自伤。“抑郁症”是一种非常痛苦的疾病,真正对病人的生存有威胁,需要得到及时的诊断和治疗。

  我得了“抑郁症”快三年了。我的主要病情为情绪的持久低落,思维迟钝,体力减退,还反复出现想死的念头。我来上海以后,去了一所医院看病,那里的心理医生说不要为所当为,治疗这种病的真正目的是要重建被疾病损害的生活。现在我在使用抗抑郁药,虽然还没有完全康复,但感觉比以前好了很多。

  据网上新闻报道,上海约90%左右的精神疾病,心理障碍患者没有到医院就医或没有专业指导。前来就医的还只是冰山一角,很多市民不知道自己有心理障碍,而由于社会偏见等原因,不愿意去就诊。不管中国还是日本,人们对“抑郁症”的认识普遍不足。了解了“抑郁症”的基本知识,识别它并不难,关键是我们能够抛弃歧视态度,消除自卑心理,主动求医。因为“抑郁症”虽然是一类严重的疾病,但是可以治疗的。
[PR]
by azu-sh | 2006-09-16 10:40 | 「あづ」の中国語ティータイム