★2012年8月、およそ6年ぶりに中国上海に帰ってきました!このブログは「AZU」が綴る、上海(サンヘー)滞在記録。ワクワクの上海生活、まるごとお届けします。ほらね、生きてるってこんなに可笑しい★


by azu-sh
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<どっちがいい人?>

これは人間性を表す二つの手話表現です。
片方は良い性質、もう片方は悪い性質。さぁ、どっちがよい人かな?

A・
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B・
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勘で答えるしかないって?
いやいや、絵をよーく見てください、きっとわかるはず!!

★正解はコメント欄にLet's go♪★
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by azu-sh | 2006-07-31 06:05 | 「あづ」の中国手話教室
<自己紹介編>

これはあづの中国語姓。わたしは普段この姓で名乗っています。
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指で漢字の形を見事に表現しています。さぁ、何という姓でしょう?
(ちなみに日本の苗字ではなく、中国人の一般的な姓ですよ。)

★コメント欄に答えを載せました。あなたの予想は当たってたかな?★
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by azu-sh | 2006-07-29 12:55 | 「あづ」の中国手話教室
 日本にやって来た中国人留学生は、皆アルバイトに精を出しています。学費を稼ぐため、実家に仕送りするため、将来の夢のため。目的は様々だけど、忙しい学業の合間を縫ってバイトをはしごする留学生。彼らが職場でどんな苦労に耐えているか知らなかったわたしは「すごいよね、三つもバイトかけもちなんてさ。中国人ってタフなんだねー」と感心していました。
 しかし、日本語の不慣れな留学生が日本でバイトをする…というのは、たぶん多くの日本人が想像する以上に厳しく冷たい現実が待っているもの。店長の指示が聞き取れない、正しい敬語が使えず誤解を受ける、日本式サービスができずクレームを受ける。自分では最善を尽くしたつもりでも、それが日本人の要求に合わないことも多々あるのでしょう。
 わたしがコンビニで働いていた時、バイトの求人を募ったことがありました。早朝の短時間バイトで、時給はかなり高め。案の定、近所の大学に通う中国人留学生が次々と応募の電話をかけてきました。しかし店長は事前にこう言ったのです。「いいね、もし留学生が応募してきたら全部それとなく断ってくれ」。店長のこの言葉に、わたしはどれほどガッカリしたことか…。明らかに中国人とわかる声で「アルバイトしたいんですが」と電話がかかってくるたびに、心の中で(真对不起…)とつぶやきながら断り続けました。ほんと、今でも心が痛みます。ごめんなさいっ(> <)

 電話で断りながらわたしの頭に浮かんでいたのは、数年前に自分が中華料理屋でアルバイトしていた時の苦い経験でした。知り合いの紹介で、あづは実家から近い繁華街にある中華料理屋で週二日だけアルバイトすることになったのです。ホールスタッフの女の子で日本人はわたしだけ。店長(老板)も奥さん(老板娘)も台湾の人、アルバイトは全員中国からの留学生でした。お客さんのいるホールでは当然日本語を使いますが、従業員同士の共通語は百パーセント中国語。接客もちょうどこんな感じです。
あづ 「いらっしゃいませ。ご注文お決まりでしょうか」
客  「えーと、五目あんかけご飯、海老餃子ふたつ、
    …それから食後にタピオカミルクね!」
あづ 「はい、五目あんかけご飯、海老餃子おふたつにタピオカですね」
    (コックさんに向かって)
あづ 「什锦烩饭,虾饺两,西米露!」
コック「好的!」

 店内に日本人スタッフはあづ一人きり。中国人のコックさんが混乱するから、オーダーの復唱もわたしだけ日本語で通すわけにはいきません。最初はもの珍しかった「中国語漬けのバイト先」も、現実はちっとも甘くありませんでした。コックさんに「ほらスプーンちょうだい、早く!」と中国語で言われても聞き取れず、反応できません。“中国の烏龍茶は先にお湯で茶葉を洗う”ということを知らなかったせいで、奥さんに「何してるの!」と中国語でどなられます。中国語の指示を聞いてキビキビと動く留学生たちの中で、あづだけ何を指示されているのか聞き取れずペースを乱してしまう。
 (ここは日本で、わたしは日本人なのに、どうしてこんな目に遭っているんだろう。まるで外国にいるみたい)。あまりに理不尽で、帰宅途中に涙がこぼれました。一人だけ言葉が通じなくて反応が遅いと舌打ちされ、厨房ではわたしの陰口が中国語でこそこそと交わされる。「やっぱり中国語のわからない人が入るとテンポが狂う」「ただでさえ忙しいのに中国語を聞き返されるとイライラする」…バイト仲間たちはあづに親切にしてくれたのですが、わたしはとうとう“老板娘からの完全無視”に遭いました。わたしが全くそこにいないかのように振る舞う彼女の行為には、心底傷つきました。そしてそのすぐ後、老板からクビを言い渡されたのです。
 仕事ぶりがどうというのではなく、中国語が話せないばかりにバイトをクビになってしまった。あまりに自分が情けなくて、一時は中国語を耳にすることさえ怖くなりました。日本人が、日本で、言葉の壁でクビになる。本当に落ち込みました。心の落ち着きを取り戻すまで、次のバイトを探す気にもなれませんでした。けれど、この珍しい体験のおかげで、後にわたしは多くの留学生と共通の話題を持つことができるようになったのです。「日本語ができなくてバイトがつらい」と泣く留学生の気持ちが痛いほどわかったからです。

 ひとつの体験はひとつの理解を生みます。あづが中国語を学び始めた当時、日本で体験したこの小さな“外国人体験”。母国にいながら「外国人として異国で働く難しさ」を初めて肌で感じました。
 日本では外国人就労に関連した社会問題が後を絶たないのもまた事実。でも、あづは日本で誠実に働く外国人たちをいつも心の中で応援しているんです。店長にどなられても同僚に誤解されても「めげるなよ」って。そしていつか、海を渡ったみんなの夢が叶うといいね♪わたしも異国でがんばりまーす。
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by azu-sh | 2006-07-27 09:09 | 「あづ」の中国アルバイト
 わたしと中国語。何度も破局の危機を迎えたこの腐れ縁(笑)。言語を学んでいる人なら誰でも経験がありますよね、(もう今度こそ別れてやめてやる~ぅぅ)と何もかも投げ出したくなるあのイライラ感!やってもやっても進歩なし!そんな根性ゼロのあづが今日まで中国語を続けてこれたのは、意志の強さでも何でもない。わたしの足が完全に止まりきってしまう前に背中を押してくれた人がいたからなんです。

 中学生の頃「魯迅」を読んで中国に惹かれ、物好きが高じて中国語授業のある高校に進学。選択科目として二年間学んだはいいけれど、あまりに難しくてお手上げ状態でした。何度同じこと言われても先生の話す中国語がさっぱりわからないし、簡単な文さえ作れない。そり舌音も有気音も「それじゃ違う」って言われるけど何が違うのかわからない。当時わたしは中国についてまるっきり無知でしたから、教科書で出てきた「王府井」を人名と勘違いし(北京の王さんって人は超有名なんだなぁ)と感心していたほど(←アホ…笑)。
 中国語の授業は高1、高2の二年間で終了。(どうやらわたしは中国語とは相性が悪い。向いてない言語からは潔く手を引いて別の第二言語でも始めよう。やれやれ…)やっと開放されたわたしはこれ以上中国語を続けたいという気になれず、すっかり遠ざかってしまいました。ところが高3になって三ヶ月後、高2の時中国語を教えてくれた先生から突然の電話が入りました。
先生 『もしもしあづさん、久しぶりだね。
    中国語は続けてますか?』
あづ 「いいえ、今はバイトも忙しいから…ちょっと…。
    (勉強したくないだけなんだけど)」
先生 『そうかー、もったいないなぁ。実はN先生(高1の時の中国
    語の先生)とも話し合ったんだが、きみにはどうしても中国語
    続けてもらいたいんだよ』
あづ 「…へっ、なんでですか?(なんかヤな予感…)」
先生 『きみは絶対に中国語のセンスがあると思うんだ。このまま
    やめてしまうのはもったいない。いいね、来週から○○町に
    ある××教室に習いに行きなさい。私の紹介だといえばいい
    し、あの教室は夜の授業もあるから高校と両立できる』

 かなーり強引だったこの誘い。あづはちっとも気乗りしなかったのですが、ちょうどこの時バイトを辞める口実を探していたので(こりゃ使えるかも!)と思ってしまったんですね。「中国語の学校に行くことにしたので、時間ないんです」と言って堂々とバイトを辞め、先生の陰謀勧めどおり市内の中国語教室に通うことになったのです。けんか別れしたはずの中国語とよりが戻った瞬間でした。
 あの後も何度か中断の危機を迎えたけれど、そのたびに高校時代の先生が電話やハガキで励ましてくれました。結局社会人になってからも細々と中国語を続け、今は中国で生活しているあづ。あの時もし先生から電話がかかってこなかったら、わたしは今ここにいなかった。人生って何が転機になるかわからないものですね。

 昨年、わたしは上海市内のある中国企業で「日本人向けの中国語教材」を開発する仕事に関わりました。日本人の初級学習者を対象とした独学用教材(パソコンソフト)です。もともと翻訳スタッフとして雇われたのですが、日本で中国語講師をしていた経験が買われ、そのうち文法説明や練習問題の設問などもすべて任せてもらえるようになりました。
 この仕事をやって気づいたのは、日本にいた時と今とでは中国語を理解する方法が明らかに変化した、ということです。日本にいた時は中国語を「理論」で理解していました。だから「なぜそう言うの?」と聞かれた時は文法的にきちんと説明することができました。でも今は「感覚」で理解しています。説明はできないけど「これで正しい」ということがわかるし、なぜ間違いなのか指摘はできないけど「この文ではおかしい」ということがわかる。頭の中での翻訳作業がいらなくなった。(ああ、これが世に言う「現地で暮らす利点」なんだな)と思いました。

 「あの時背中を押してくれて感謝してます」と今度はこちらから電話を入れたいのはやまやまなんですが、その中国語の先生は昨年亡くなってしまいました。上海で仕事をしていた時、高校時代のクラスメートからのメールで先生の訃報を知ったのです。最後に一度だけ、先生と中国語で話してみたかったなぁ…。
 老师,您的教导恰如春风化雨,耐心地鼓励我坚持下去。
 我对您感激不尽!

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by azu-sh | 2006-07-25 16:47 | 「あづ」の中国語ティータイム
 何をいきなり?!という感じですが、あづはかなり気合の入った天体ファンです!b0074017_1082938.jpg
昨日、日本の友達がDVDを持って来てくれたので、久しぶりに「アポロ13」を見ました。いや~これは見事にあづのツボを刺激してくれる作品ですね。
 わたしはスペースシャトルの打ち上げと帰還は必ず中継で見る人。そういえば昨年、野口さんがディスカバリーに乗った時も、上海から声援と共に見送ったものでした(↑フロリダじゃないところが悲しい…泣)。2003年に起きたあのコロンビア号空中分解事故の時、あづは映像を見ながらショックを受け本気で泣いてしまいました。だから野口さんの時も、ディスカバリー号が無事着陸して乗組員が出てくるまでとても眠れなかったんです。一体なぜそこまで入れ込んでいるのかわかりませんが、とにかくそんなヤツなのです。もしアポロ13号の時代にわたしが生きてて実際の中継を見ていたら、一体どうなってたやら。…たぶんNASAに熱上げて就職試験受けに行ってたでしょうね、掃除婦として。

 小学生の頃、あづは宇宙関係の児童書を読みあさっていました。「超新星」やら「白色矮星」やら…本で覚えたそんな言葉を何度も口の中でつぶやいては武者震いしてたものです。ものすごく荘厳な世界に足を踏み入れてしまったような、そんな気分でした。
 中学生になると、「将来就きたい職業を考えましょう」という進路指導が始まります。クラス全員図書室に連れて行かれ、「なるにはシリーズ」と呼ばれる職業解説本で自分のなりたい職種について調べるようにと言われました。わたしが借りたのは当然「宇宙飛行士になるには」の類。いかに人生計画の不透明な子だったかバレバレですね。延々と何ページにもわたって続く「宇宙飛行士募集要項」を隅々まで熟読したあづは、たぶん何百とある条件に自分が唯一当てはまっている項目を見つけて歓喜しました。ちなみにその項目とは…“身長149センチ以上、193センチ以下であること”。他はことごとく不合格でした(T T)

 高校生になったあづの手帳は、天体イベントでぎっしりでした。他の女の子たちは「12日・カラオケに行く♪」だの「24日・○○ちゃんの誕生日★」だの…そんな用事でスケジュールが埋まっているというのに、わたしの手帳は「10日・22時から部分月食♪」だの「27日・○○座流星群★」だの…。みんなに「あづって変わってるよね~」と言われてました、はい。
 星座にも詳しかったけど、当時わたしが毎晩チェックしてたのは惑星の位置。星座は全体像がそのまま移動していくけれど、惑星は星座と関係なく単独で移動していくからおもしろいんです。空を見上げ、水星・金星・火星・木星・土星を一瞬にして言い当てられる特技がありました。その頃、同じく天体ファンだったらしい父がわたしに天体望遠鏡をプレゼントしてくれました。自分だけの望遠鏡、幼い頃からの夢だったのでスゴクうれしかったなぁ…。赤道儀も付いていない簡単なものだったけど、間違いなく土星の環を捉えた時は感動モノでした。

 余談ですが、わたしの姉は五歳で母と別れ、あづは三歳で父と別れました。その後高校生になるまで、わたしは一度も父に会ったこともなければ話したこともありませんでした。それなのにわたしが高校生になった時、不思議なことが判明。当時母と姉は同じ号の「レタスクラブ」を買って読んでおり、父とわたしは科学雑誌「Newton」をそれぞれ購入していたのです。その親に育てられたわけではないのに、別々に生活してる親子同士が同じ雑誌を買ってしまう。うーん、血って怖いものですね。(笑)
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              あづも乗りたいよー(≧∇≦)/
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by azu-sh | 2006-07-21 10:19 | 「あづ」の一筆コラム
 誰にぶつけてよいやらわからない複雑な思いが、行き場を求めてうごめいていた。ある日、わたしは突然思いついて神様に手紙を書くことにした。神様だから、実際に投函する必要はない。演技する必要もなければ隠し事をする必要もない。何せ相手は神様だから、どう演技したって見破られるのがオチだろう。一体どんな出だしで書けばいいのか悩みながらも、わたしは神様に手紙を書き続けた。誰か読んでくれる相手を想定して書くだけで、日記よりずっと気持ちよく表現できるということに気がついたのだ。

神様、天からわたしをご覧になってどうお感じですか。
あなたの目にわたしはどう映っていますか。
わたしは病気に気づかなければ良かったと思っています。
どうかわたしのことをお許しください。
途中で放り投げたわたしをお許しください。
本当にごめんなさい。もう自分に力がなくなりました。

周りに気を使わせ不快な思いをさせている自分を
受け入れることができません。
わたしのために時間や体力を使ってくれた多くの仲間たち。
わたしが奪ってしまった彼らの貴重なものを
倍にして返してあげていただけますか。
胸が苦しいです。神様、こんなわたしでごめんなさい。

どこから手をつければよいのかわかりません。
治りたいのか治りたくないのか自分でもわかりません。
何かを考えたり選んだり決めたりできません。
だからわたしにわかりやすく教えてください。お願いです。
自分が自分のこときらいでどうにもなりません。
神様、わたしは悲しいです。すごく悲しいです。


 神様はわたしの手紙をちゃんと読んでくださったのだと思う。友人たちを通して、わたしが必要としていた導きや情報が次々と与えられるようになったからだ。以前、「薬の力を借りなさい」というアドバイスをくれた先輩からはこんなメールが届いた。

『(前半省略)…自殺願望と自殺未遂は風邪と肺炎くらい、いやもっとそれ以上の開きがあるみたい。そこまで追い詰められたあづは自分の努力ではどうしようもない状態だったと思うよ。自分を責めちゃう気持ちが起こるのは仕方がないと思うし、同じ立場になったらみんなそう感じると思う。でも責めてもいいから人にちょっとずつ甘えて頼ったらいいよ。落ち込んでもいいから自分のこと客観的に見て毎日の変化を何か見つけて、それを教えてくれない?』

 うつの時期って楽天的な励ましの言葉が一番心に突き刺さるものだ。うつ状態の時にはジョークなんか通じなくなっているのだ。でも彼女が送ってくれたメールは事態の深刻さを認めてくれたうえで現実的な提案をしてくれている。とても心が安らいだ。
 そして、こんなメールも届いた。わたしのことを幼稚園の頃から知っていて、娘のようにかわいがってくれた人からだった。その家の長女がやはり気分障害で治療を受けているのだが、今とても良い医師に診てもらっていると言う。「通うには少し遠いけど、本当にすばらしい先生だからあづちゃんもぜひそこに行ってみなさい」と勧めてくれた。実は、この親切な友人の紹介のおかげで、わたしはついに心を許せる医師に出会うことができた。大きく回り道をしたけれど、トンネルは行き止まりではなかったのだ。
 「あづのうつ」体験記、まだまだ続きます…。

【ここまで読んでくださってありがとうございました。一気に10編投稿したので、ここでいったん「うつシリーズ」はお休み。今後しばらくは“サンヘー情報”に戻ります♪うつ病体験記の続きはそのうちまた更新しますね。】
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by azu-sh | 2006-07-18 07:49 | 「あづ」の「うつ」
 S病院で過ごした夜はまんじりともできなかった。いつの間にか、枕が涙でぐしょぐしょになった。怖かったんじゃない、途方もない無力感に圧倒されていたのだ。隙間のない監視体制(入浴時でさえ男性スタッフが見張っていた)とロボットのように事務的なスタッフ、「家に帰りたい」とあづに助けを求めてくるかわいそうな患者さんたち。…ここにいたらダメだ。自分の性格は自分が一番よくわかっている。きっと自分の治療そっちのけで周りの世話を焼いてしまうだろう。理不尽な現実に対する免疫がなくなっているから、これ以上ここにいたらわたしは泣き尽くし、そのうち正気を失ってしまうに違いない。その前にここを離れなくちゃ…。思うように動かない舌にいら立ちながら、職員に頼み込んで電話を借り、母に連絡した。「ここから出たい。今すぐ迎えに来て」。
 わたしがなんとしても今日中に医師に会いたいと粘ったので、職員はしぶしぶ応じてくれた。「退院したい」と言うと、S病院の担当医は苦笑いした。ほら、わたしの主治医と同じだ。激しい嫌悪感に襲われたわたしは、ここでも演技を通すことにした。“もう治りました”という演技だ。演技さえすればここから出してもらえるはず、ちょろいもんだ。医師が尋ねる。「もう自分から死のうとしないと約束できますか?」わたしはまじめな顔をして大きくうなずいた。「はい」。ウソでいいのだ。こんな所にいたら、死にたい時に死ねない。「約束ですよ?じゃあ退院手続きしますから今後は自宅で静養してくださいね」。
 わたしを慕ってくれていた舞ちゃんは寝息を立てている。彼女が目を覚まさないうちに病室を出た。ごめんね、ごめんね。「お願い、友達になって」と言われていたのに何もしてあげられなくて…本当にごめんね。

 もうどの病院にも二度と行きたくなかった。これまで通っていた“喫茶店”クリニックにも、入院していたS病院にも。どちらの病院も、わたしのうつ病を治すどころか人の心をメタメタに踏みにじり、生きる気力を余計に奪っていくだけ。処方された抗うつ薬も精神安定剤も、飲んでも飲んでも効果がわからない。副作用は口渇にとどまらず、手の震え・足のこわばり・頻脈・便秘・ふらつき・目のかすみなどが続々襲ってきた。体力がなく、もうほとんど寝たきり状態である。薬を飲み始める前に比べ、体調は格段に悪化していた。
 どうやらわたしは命に「適応」していないらしい。生きていることに違和感がある。存在していることが不自然に感じる。うつ病は「長いトンネルのようなもので、いつか必ず出口にたどりつく」と言われるけれど、この暗闇に出口があるとは到底思えなかった。病院に不信感を持ってしまったわたしは、自分を助けてくれる医師など絶対に見つかるわけがないと思っていた。

自分が本当に病気なのかまたわからなくなってきた。
疲れてたことは確かだから単に休みたかったのか、
わがままゆえ、未熟さゆえに仮病してるのか…
そのどれかのような気がする。
なんで誰もほっといてくれない?誰も説明してくれない?
わたしがいなくなることをわたしは全く気にしてない。
むしろいなくなってくれたほうが努力しないで済む。
早く引退させてよ、もう十分。
死んじゃいけないほど残酷なことってない。
このままいつまで続くの、これが。
もうやめたい、終わらせたい。
死んじゃいけないってわかるけど、もう一度言ってほしい。
「死んでもええで」って。
そしたら安心していけるのに。誰か言って。うまく信じ込ませて。
わたしを騙してみて。わたしを終わらせて。
…誰に言えば叶う?

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by azu-sh | 2006-07-17 19:13 | 「あづ」の「うつ」
 わたしが入院したS病院では、持ち物を徹底的に点検された。抗うつ剤の副作用で唾液が出なくなり口がカラカラになってしまうため、わたしはペットボトルに水を入れて常に手に持っていた。しかし「ペットボトル持込みは禁止されています。たとえ中身が水でも、他の患者さんがうらやましがるので没収します」と言われ、納得のいかないまま取り上げられてしまった。でも飲み水を奪われ舌が張り付いてしまったわたしは、文句の一言すら言えなかった。
 入院時に持ってきたはずの私物のほとんどは、どういうわけか手元に戻ってこなかった。携帯電話も取り上げられた。パーカーのフードについていた紐は「首を絞めるのに使われかねない」という理由ですべて抜き取られていた。下着から小物まで、すべての持ち物にマジックで名前が書かれている。母の字だ。名前を書くよう指示された母はどんな思いをしたのだろう。備え付けのトイレットペーパーも凶器になりかねないため、きちんと管理されていた。部屋は確か六人部屋で、互いのベッドとベッドの間に目隠しのカーテンがないどころか、外に面した窓にも廊下側の窓にもカーテンはなく全面ガラス張りだった。プライバシーなど全くない。どこからでも監視可能な透明ケースに入れられたかのようだった。
 この病院で見たことはあまりに非人道的で、書くに堪えない。今でも思い出しただけで頭痛に襲われる。ただし「精神科って怖いところだ」という先入観を持ってほしくはない。あくまでこの病院が特別だったと思うから。だから入院中の細かいことはここでは触れない。でも生気を失ってここに入院してきたわたしに、多くの入院患者が助けを求めてきたことだけは書いておきたい。

 わたしの見る限り、S病院に入院している人が真に必要としている支えや治療を与えられているとは思えなかった。同じ病室だった舞ちゃんは十代の女の子で、両親に会いたくて会いたくて寂しさに潰れそうになっていた。黒髪のきれいな三十代の沙希さんは、自分のことを愛してくれる男性が迎えに来たらこの病院から出られる、と堅く信じていた。二十歳くらいの順子ちゃんは五十錠以上の薬剤を飲んで自殺未遂し、体調が戻ってから大部屋に移ってきたと話してくれた。みんなことごとく、目が死んでいた。
 この人たちが、話を聞いてくれる医師や理解を示してくれる家族、励ましてくれる友を必要としていることは一目瞭然だった。しかしS病院のスタッフは信じがたいほど機械的で、明らかに患者を見下していた。食事の時など、ご飯を食べたがらないおばあさんが茶碗を手で押しのけると、看護婦さんは怒鳴り声を上げて彼女を引っぱたき、無理やり口に押し込んでいた。泣き叫ぶ患者さんがかわいそうで、わたしは気が狂いそうになった。どうして優しく声をかけながらゆっくり一口ずつ食べさせてあげないの?声さえ出れば、看護婦に代わって「わたしにやらせてください」と言いたくてたまらなかった。
 わたしは自分自身「うつ病」で入院してきたにもかかわらず、“傷ついている人を放っておけない”という本来の性格がここでむくむくとよみがえってしまった。沙希さんのつじつまの合わない話に付き合い、舞ちゃんの可愛らしい持ち物をほめ、順子ちゃんに「大丈夫だよ、必ず退院できるよ」と励ます。優しくされることに飢えている入院患者たちは、すがるような目でわたしに付きまとってきた。まるで自分がヘルパーとして病院にやってきたような錯覚に襲われ、何のために入院したのかわからなくなった。
 看護婦の目を隠れて、「退院手続きを取りたいけれど、入院時に渡された書類の内容が理解できないから教えてほしい」と言ってくる人。「あづさん、あなたはここにいちゃいけない。あなたの目は正常だから任意入院なら一日も早くここを出たほうがいい」と小声で言ってくれる人。「あづさんがここを出たら、必ずわたしの代わりに家族と連絡とってほしい」と言ってそっと自宅の住所を渡してきた人。
……
 
 あづはもう限界だった。涙が止まらなかった。死にたいけど死んじゃいけないから入院してきた。休職して心と体を休めたいから入院してきた。それなのに、ゆっくり静養できるどころかこんなに傷ついた人たちが余計痛めつけられるのを黙って見ていなければならない。薬の配り方など、まるで動物にエサを与えているかのようなやり方だった。とりあえずエサを与え、死なないよう監視しているだけの施設。回らない頭であづは決心した。今すぐ、ここを出よう。

(患者さんの名前は変えてあります。)
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by azu-sh | 2006-07-15 21:59 | 「あづ」の「うつ」
 たった数時間動くだけで体力が底をついてしまうほど疲れきっていたのに、わたしは休職を申し出ることができなかった。バイト先の店ではシフト制で働いていたから、ひとり抜けたら全員にしわ寄せが来る。家庭教師も、わたしが行けなくなったら全生徒の学習がストップしてしまう。性格上、人に迷惑をかけることを極端に嫌っていたし、“わたしが抜けたら代わりがいない”というかたくなな責任感も災いし、なかなか休職に踏み切れなかった。
 けれど、入院してしまえばすべての責任から堂々と逃げられる。仕事を休む正当な言い訳になる。わたしはやっとのことで全面休職にこぎつけた。

 「入院先にお友達は出入りできません。面会も無理です。当日、ご家族以外の方に付き添ってもらうことはできませんのでご了承ください」。
 主治医からも、入院先の病院からもそう言い渡された。わたしがうつ病の真相を家族に告げていないことを知っていたE子は、心配して食い下がった。「あの、どうしても友達じゃダメなんですか?」…融通なんか利くわけなかった。
 わたしの家族は「うつ病」というものに対する知識がまるでなかった。単なる疲労や体調の悪さなら、誰にでも経験があるから想像しやすい。でも、抵抗しがたいほどの「希死念慮」など一体どうやって家族にわかってもらおうというのか。「うつ病」と診断された後、わたしはインターネットで集めた医学情報をプリントアウトして親に渡してみた。「うつ病」とはどんな病気で、どんな症状がみられ、どんな治療法があるのか。基礎知識がない人でも理解できるよう、なるべく簡潔に書かれているものを選んだつもりだった。
 わたしがどんな状態なのか、同居している家族には知ってもらいたかった。むさぼり食うように読んでくれることを期待していたのだと思う。しかし、実際の反応は違った。「ふぅん」…パラパラとめくっただけで脇に置かれ、それで終わりだったのだ。その瞬間、わたしはそれ以上家族に話すのをやめた。最終的に理解できなかったとしても、せめて努力をみせてほしかった。

 しかし入院が決まったことで、やっと親があわててくれた。いつの間にかそれほど大変な状況になっていたのだということに初めて気づいてくれたのだ。職場の理解と家族の理解。それを得たいがためにわたしは入院を望んでいたのかもしれない。

 当日の朝、わたしは車に乗せられて入院先の病院に向かった。朝早いというのに、入り口には自宅から駆けつけたE子も来ていた。ここから先、本人と家族以外は入れない。寂しげな目をしたE子は「あづ、メールするからね」と言って見送ってくれた。
 わたしが入院した病院は百パーセント精神病患者のみを収容している病院だった。うつ病で入院した別の人の話を聞くと、わたしの入院体験とまるで違っているので驚かされる。よほど特殊な病院に当たってしまったのだと思う。母と別れてから何度も角を曲がり、エレベーターに乗って何階に停まったのかすら確認できないまま降ろされ、そこから暗証番号の要る重々しいドアを二つ通り、入院用病室に出た。これでは閉じ込められたも同然だ。
 ここで過ごした時間は悪夢だった。
 放っておいたら自殺を図りかねない人たちを物理的に隔離し、心の死んだまま体を生かしておくだけの病院だったのだ。
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by azu-sh | 2006-07-14 10:20 | 「あづ」の「うつ」
※ありがとう
【ここしばらく自分が体験した「うつ病」の記録を綴っていますが、心のこもったメッセージや共感のコメントをたくさんいただき本当に感激しています。「うつ病」に対し、多くの人がいまだに偏見と誤解を抱いているのは事実です。「社会の落ちこぼれ」だの「気のせい」だの「精神異常」だの…心無い言葉が飛び交っていますよね。だから本当はブログにうつ病体験を書くことがちょっと怖かったんです。実名を公表していないとはいえ。
 しかし、わたしの長々とした体験談を真剣に読んでくれる人がいたというだけでもありがたいのに、こんなにあたたかい言葉をかけてもらえるとは。全く予想もしていませんでした。皆さん本当にありがとう~o(^-^)o
 わたしがこのブログに書き残しておきたいのは決して病状の細かな記録ではありません。あの時、わたしの友人たちがどれほど見事な連携プレーでわたしをとどめ、ありったけの力を注ぎ込んでくれたか。周囲の人は「うつ病患者」をどこまで支えてあげることができるのか。…この記録はきっと別の誰かの参考になる、と思うのです。
 わたしは治療を受け、現在はあの生き地獄から幾らか解放されました。けれどまだ、当時のわたしをとどめてくれた友人に対し、心の底から「ありがとう」と言う気になれない時もあります。あの街に帰る勇気が出ず、再発を恐れるあまりもう長いこと帰省してないし…。こうして当時起きたことを文章として表すことで、記憶をひとつひとつ整理しているつもりです。
 今、うつに苦しんでいる人はたくさんいます。あなたの大切な人が「うつ病」になった時、“腫れ物に触れる”かのような扱いをしたり無知のまま接するのではなく、正しい知識と尊厳を持ってぜひ一緒に闘ってあげてほしい。わたしの友人たちがそのヒントとなりますよう、心から願っています。】
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 生きることへの意欲を完全に失ったわたしを見て、友人のE子はいたたまれなかったらしい。こんなに苦しんでいる人間を前にして、これ以上何をしてあげられるというのか。今すぐ苦痛から解放してあげられる手段は、死しかないのかもしれない。関西出身である彼女は、うつのどん底で苦しむあづにこうつぶやいた。「なぁ、あづ…。死んでもええで」。わたしはビクンと反応し、静かに笑った。
 しかしそのすぐ後、E子はわたしに手紙を書いた。彼女の必死な思いが封筒からあふれ出してきて、あづの凍えきった心が大きく揺れ動いた。見慣れたE子の字を目で追ううちに、涙がこみ上げてきた。わたしの痛みを進んで共有しようとしてくれる人が、ここにいた。

『わたしのあづ。
あづを見てるとつらくってつらくって、楽にしてあげたくて、
だから死なんといてって、私よう言わんかった。
でもやっぱり、死んじゃいや。
あづが死んじゃうかもと思ったら、やっぱり居ても立ってもいられない。
心配で心配でたまんない。
死ねないという事はもう少ししんどいのが続くことかもしれん。
でも私あづのそばにいるから。
あづの代わりに泣くし、あづのできない所はやるから。ここにいるから。
だから、死なないで。一緒に生きてて。   E 』

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by azu-sh | 2006-07-12 08:36 | 「あづ」の「うつ」