★2012年8月、およそ6年ぶりに中国上海に帰ってきました!このブログは「AZU」が綴る、上海(サンヘー)滞在記録。ワクワクの上海生活、まるごとお届けします。ほらね、生きてるってこんなに可笑しい★


by azu-sh
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 高校の先生の勧めで行くようになった中国語講座だが、わたしにとって毎回の授業はかなり重荷だった。中国人の先生の話す中国語が全く聞き取れないのだ。その頃、わたしは黄老師(黄先生)という北京ナントカ大学から来た中年の女の先生のクラスだった。彼女は外国人に中国語を教えるプロで、授業は確かにテンポ良く、楽しい雰囲気だった。来日したばかりの黄先生は日本語が全く話せなかったので、授業中もその前後も、使える言語は中国語のみ。わたしは完全にクラスの落ちこぼれだった。毎回席が決まっていて、質問に答える人を席順にあてていくのだが、先生はわざと順番を変えてわたしに簡単な質問が来るようにしてくれた。しかし、それでも答えられなくて、沈黙が続いてしまう。先生はさすがにあきらめて、わたしを飛ばしてみんなをあてるようになった。

 (もうやめようかな、たぶん向いてないんだ)…中国語講座に通って一年半が過ぎていた。わたしは自分はもうこれ以上伸びないだろうと思い、中国語講座に行くのをやめようと考え始めた。その時、三歳の時に別れて以来数度しか会ったことのない父から電話があった。「進路はどうするんだ?進学するなら援助するぞ」。わたしは中学生の頃からボランティアをしていて、高校を卒業したらそれをもっと本格的にやろうと考えていたので、「ん~進学はしない。」と答えた。その時、中国語講座でもらった夏期短期留学の案内が目にとまった。
 「ねえ、お父さん。そのかわり、留学したいんだ。費用助けてもらえる?」中国語は完全にやめてしまうつもりだったのに、(やめちゃう前に、中国がどんな所なのか見てこよう)と思い立ったゲンキンなわたしは、中国ハルピン市黒龍江大学に留学することになった。動機は単純、海外に行ってみたかったから。これがわたしの中国語人生の転機になるとは知らず、何の期待も目標もないまま、初めての飛行機に乗り込んだ。

 中国に着いた最初の日に口にした唯一の中国語は「不要」(いらない)だった。そればかり言っていた。きれいなものを見てもおいしいものを食べても、「不要」しか出てこない…(笑)。ところが、一日また一日と過ぎていくごとに、少しずつだけど、今まで口にしたこともない長い文章が中国語で言えるようになってきたのだ。大学の留学生面接の時、わたしは中国人の先生たちの前でこう言った。“在日本的时候我是高中生,可是在中国的时候我是大学生,所以我很高兴。”(日本にいる時は高校生だけど、中国にいる間はわたしは大学生。だからうれしいです)どうやら、この一言でわたしの属するクラスが決まったらしい。一番レベルの高い高級班だった。

 ハルピンでの授業は、いつもの授業と違った。日本語なんて一言も使っていないのに、先生の話していることが100%わかるのだ!わたしは積極的に発言し、質問した。授業が終わると街へ繰り出し、バーゲン中のデパートでTシャツを買ったり、自由市場と呼ばれる路上の八百屋さんや馬車に乗った果物屋さんから目新しいものを次々買った。どこへ行っても中国語で話した。今までのわたしと脳が別人になった気分だった。放課後中国語を教えてくれる家庭教師の大学生とも仲良くなった。一時間レッスンの予定が二時間、三時間も時間を忘れて中国語でおしゃべりをした。知らなかった、中国って楽しい!中国語ってこんなにおもしろい!!

 ハルピンから戻ってきた最初の日本での授業で、黄先生が「初めての中国はどうでしたか?」と尋ねてくれた。わたしはなんとそれから10分ほど、しゃべりっぱなし。どんなに楽しかったかを中国語でまくしたてた。驚いたのは黄先生とクラスメートたち。みんな目を丸くして「あづさん、いつからそんなに中国語できるようになったんですか?」と口々に言う。それもそうだ、留学に行く前のわたしはクラスで唯一「口を開こうとしない子」だったから。ハルピン留学から帰ってきたわたしは、中国語をライフワークにすることに決めた。初めて中国の洗礼を受けたわたしは、身も心も中国大陸に奪われてしまったかのようだった。
  続く…

 当時は道路に馬車専用通路まであった、馬やロバの荷車。
 よく見かけたけど、今はどうなっているんだろう。
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 歩道を占領して猿の芸を見せていた。
 わたしは猿ではなく見物人を見物していたが。
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 「戦後流行った近所の駄菓子屋さんだよ」と
 母に言われても信じそうなセピア色。
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 大学の校舎の横で「香瓜」を買う。
 マクワウリという小型のメロン。甘くておいしい。
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by azu-sh | 2010-09-22 03:04 | 「あづ」の中国語ティータイム
 高校での中国語の授業は二年間だった。わたしは毎回ワクワクした気持ちで授業に臨んでいたのだが、クラスメートたちは違った。授業中は熟睡している人ばかりで、先生の講義も遅々として進まなかった。わたしは業を煮やし、職員室に行った。「先生、わたし中国語上手くなりたいんです。授業で文法をもっとたくさん教えてください」。先生は「でもね」、と残念そうに言った。「他の生徒の授業態度とレベルを見てたらわかるだろう、文法なんて教えても、とてもついてこられない。じゃあ、こうしよう。きみは毎週ノートに中国語で日記を書いて提出しなさい。次の週までに先生が添削して返すから。ずっと続ければ力になる」。

 高校三年生になり、学校での中国語の授業が終わると、先生は電話をかけてきてわたしに言った。「高校の授業は終わってしまったが、きみにだけは中国語を続けてほしい。やめてしまうのはもったいない。市内にある中国語の学校を紹介するから、高校と両立して通いなさい」。
(その頃の話を四年前に記事にしたので興味があればクリックしてね ↓ )
感谢您,我的中文老师!

 先生が紹介してくれた中国語講座は、入門・初級から上級・高級クラス、通訳養成コースや留学準備コースなんかもあって、規模は小さいけれど本格的な語学学校だった。もちろん、ネイティブの先生に教えてもらえる。わたしの高校の先生はなんとその学校の代表者だった。わたしは中級クラスにするか上級クラスにするか迷った挙句、上級クラスからスタートした。高校と違って、やる気にあふれた学習熱心な社会人ばかりのクラスで、先生は中国人。初めから面食らった。でも、高校に行きながらなんとか通い続け、高校卒業後も次々上のクラスに進んで中国語を学んだ。

 高校在学中に、先生が「中国語弁論大会」に出てみないか、と声をかけてくれた。わたしは決められた課題文を読むだけの朗読の部に出たかったのだが、先生の一存で自分で作文したスピーチを暗記して表現する弁論の部に出ることになってしまった。その頃のわたしはまだ自分で中国語の文章が作れなかった。結局、ほとんど中国人の先生が訳してくれたものを必死で覚えたわたしは、自分の高校生活の集大成と思って県大会に出場し、なんと優勝してしまった…。
 次は東京で全国大会がある。わたしは自信のないまま、先生の猛特訓を受け、一緒に中国語を習っていた高校の後輩と二人で東京に行って中国語弁論全国大会に出た。今でこそ珍しくなくなった高校での中国語教育だが、当時はまだ高校生で中国語をやっている人は全国的に少なかった。20数人がエントリーした全国大会出場者のうち、高校生はわたしを含めて三人。中国からの来賓や大学教授などがずらりと並んだ審査員席を見て、わたしはおじけづき、プレッシャーに負けそうになった。
 しかし結果はまあまあで、わたしは高校生でただ一人入賞を果たした。上位には食い込めなかったが。

 その先生は、中国語に限らず、アジア諸言語の教育や外国人に対する日本語教育に力を入れていた。わたしは夏休みに短期留学に行ったハルピンで、初めてロシア語を目にし、ロシア語にとても興味を持っていた。それで、わたしの通っていた語学学校にロシア語クラスがオープンすると聞いて飛びついてしまったのだ。ロシア語はロシア人の先生について二年間習ったが、全くモノにならなかった。今思うと、ロシア語じゃなくて広東語をやるべきだった…(--;)そうしたら中国在住中に使えたのに。

 先生は語学学校でたくさんの中国人職員を雇っていたのだが、わたしが上海にいた頃、学校の職員室でそのうちの一人に殺されてしまった。雇用条件などが理由ではなく、全く個人的ないさかいが原因だったようだが、ほかでもない、あんなに愛情を持って交流活動を続けてきた中国の人に殺されてしまったなんて無念だったろうと思う。国際交流というのは、国対国、ではなく人間対人間のレベルで真意が問われるものなのかと思った。
 でもあの先生の作り上げたものが、まだこの地で息づいているのを見るとうれしくなるのは、わたしだけではないと思う。ありがとう、先生。

 続く…

↓ 浙江省か江西省か…?車窓から見た景色。
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by azu-sh | 2010-09-11 14:25 | 「あづ」の中国語ティータイム
 わたしが中学三年生の時、市内に新しい高校がオープンした。何でも、大学のような単位制で、朝から夜まで好きな時間に登校できて、普通科なのに選択授業で工業科目も商業科目も外国語も専門的に学べるという。進路に悩んでいたわたしは、「中国語が学べる」という話に飛びついた。でも、何しろできたばかりの高校で、先生たちの手元にも何の資料もないし偏差値の基準も進学率のデータもない。わかっているのは市内の公立高校で倍率が一番高いこと、入試が独特で五分間の持ち時間の間に何か得意なモノを披露して自分をアピールするということ…。難しそうに思えたが、中国語を勉強したい一心で受験を決意した。しかも最初から行くつもりのない私立高校の併願はしなかった。今考えると、よくあんな度胸があったなぁという感じがする。

 その頃、中学の国語の授業で魯迅の「故郷」を勉強した。わたしが出会った初めての中国文学だった。わたしはひとつひとつの言葉を噛みしめるように読んだ。わたしの理解力では及ばないところもあったが、とても強い影響を受け、授業の終わりに書いた感想文に「高校生になったら絶対中国語を学んで、もっと理解できるようになりたい」と書いた。

 そして高校入試。わたしは当時習っていた手話で五分間のスピーチをし、何とか合格を手にした。後で聞いたところによると、同級生たちはフルートやピアノの演奏、バスケのシュート、百メートル走、手作りのお菓子、自分で縫ったスーツ、英語やスペイン語のスピーチ、自作のドキュメンタリービデオ…など実にいろいろな“自由表現”で狭き門を通り抜けたことを知った。道理で、個性的なメンバーが集まっていたわけだ。高校の入学式でわたしは入学者代表の言葉を言った。もちろん、「この高校で中国語をやりたい」ということを含めた。

 高校一年生の春から、わたしはついに念願の中国語を習うようになった。新しい言語を学ぶのはおもしろかったが、一筋縄ではいかなかった。20人くらいいたクラスの人数はどんどん減り、夏休みが終わっても授業に来るのは7人ほどしかいなかった。最初から単位を取るつもりもなく、他に適当な科目がなかったから仕方なく中国語を選択した生徒ばかりだった。全体的に全くやる気のない雰囲気の教室で、先生の声だけがこだましていた。でも、高校時代にわたしに中国語を教えてくれた先生に、わたしは今も深い恩を感じている。日中友好活動と中国語教育に人生を捧げたその先生は、後に中国人に刺殺されてしまうのだが…。

 続く…
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by azu-sh | 2010-09-03 15:21 | 「あづ」の中国語ティータイム